LOGIN政略結婚で嫁いだ先で夫からも家族からも愛されることのない日々を送っていた澪。 名家の娘でありながら、その立場はすでに形だけのものとなり、黒崎家では「名ばかりの妻」でしかなかった。 そんなある日、夫・黒崎恒一のもとへ、一人の女性が現れる。 ――白石美咲。 父の過去が生んだ、澪の異母妹。 夫の視線も、居場所も、そして“妻”という立場さえも。 「お姉さまは優しいんです」 そう言って微笑むその裏で、美咲は澪を追い詰めていく。 離婚を決意する澪だが、離婚だけは承知しない夫。そのため澪はすべてを捨てて自分も不倫をして不貞を理由に離婚をしようとするが、予想外の妊娠に、澪はすべてを捨てて姿を消すがーー。
View More黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。
天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。
私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。
背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気は、かつて「深窓の令嬢」と呼ばれていた母によく似ていると、よく言われたものだが、この家でそれを口にする者はいない。
時計はすでに日付をまたいでいた。
それから少しして玄関の電子音が静寂を破り、低く響く足音が近づいてくる。この家に帰ってくるのは一人だけ。
整った横顔は冷たく研ぎ澄まされていて、スーツの皺ひとつ許さない几帳面さが、そのまま性格を表しているように見える。
「まだ起きていたのか」
視線は私を素通りし、ネクタイを緩める仕草もどこか事務的に見えるのは、私の心の問題かもしれない。
「お帰りなさい」
できるだけ明るく言ったつもりだったが、それが彼にどう届いたのかはわからない。わからないままでいいのかもしれない、とも思う。
結婚して一年になるが、この家で私が“妻”として扱われた記憶はほとんどない。
それでも、この一年、努力をすればいつかは少しくらい温かい家庭が築けるのではないかと、そう思って自分なりにやってきたつもりだった。
食事を温め直そうとキッチンへ向かいかけたとき、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。振り返りはしなかったが、テーブルに置かれた画面が一瞬光るのが視界の端に入る。
〈今日は楽しかったですね、恒一さん。またお会いできるのを楽しみにしています。ごちそうさまでした〉
その文字に、私は自分の心が一気に冷たくなるのがわかった。
自分がどんな顔をしていたかもわからないが、夫は隠そうともしない。むしろ私の視線に気づくと、淡々と告げる。
「詮索はするなよ。と言っても、お前の家族を大切にしているだけだろう?」
弁明も言い訳もない言葉だったが、それをとがめるつもりはない。ただ、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます」
どうして私がお礼を言わなければいけないのか。でも、そうするしかないのだ。
私の家族――そう、美咲は確かに私の家族だ。
「今日は楽しかった、ごちそうさま」と書かれたその文字を見れば、私が作った夕食を口にするつもりがないことくらい、わかってしまう。いらないとも言わず、彼がリビングに戻ってくることもないだろう。
私は作った食事にラップをかけ、深夜のキッチンで黙々と手を動かしていた。
半年前に母が亡くなり、その後に父が再婚した相手の娘が美咲だ。そしてそのときまで知らなかったが、父は同じだった。
つまり父は、ずっと外で別の女と関係を持ち、子どもまで作っていたということになる。母との関係が冷え切っていたことも、私を政略結婚に差し出したことも、私がその程度の存在だったということだ。
母違いの妹がいることは、今までの父からすればそれほど驚くことではなかった。
けれど――。
母が亡くなり、美咲が榊原家の娘になったことから、すべての歯車は狂い始めたのかもしれない。
数字を見ても、すぐには意味がわからない。「これだけの株式を保有しているということは、単に配当を受け取るだけではありません」「どういうことですか」「会社に対して、それだけ大きな権利を持っているということです」「私が?」「そうです」聞き返してしまった。会社のことは、ずっと父が決めるものだと思っていた。母が亡くなってからはなおさらだった。「でも、父が会社を経営しています」「経営していることと、所有していることは別です」久我先生は淡々と答えた。「お父様は榊原家へ婿養子として入られた方ですよね」「はい」「お母様が亡くなられたことで、お母様が所有していた資産の多くは、遺言に従って一人娘であるあなたへ移っています」頭が追いつかない。「じゃあ……父のものではないんですか」「少なくとも、今確認できている範囲では違います」心臓が跳ねた。父はずっと、榊原家のものは自分が管理すると言っていた。私には何もできない、経営もわからない、だから余計なことはするな、と。「では、どうして父は……」「そこを調べています」久我先生の声が少し低くなった。「黒崎さん。ここからは、まだ確定した話ではありません」「はい」「お父様は、お母様が亡くなったあと、あなたの資産に関係する手続きをいくつか行っています」「私の資産を?」「もちろん、お父様が自由にあなたの財産を処分できるわけではありません。ただ、あなた自身が署名した書類もある」指先が冷たくなった。「私……何かしてしまったんでしょうか」「今の段階でそう決めつける必要はありません」すぐに否定された。「幸い、お母様の遺言はかなりしっかりしています。簡単にすべてを動かせるような状態にはなっていません」
翌日、久我先生がマンションを訪れた。「失礼します」「どうぞ」部屋へ案内しながら、不思議な気持ちになる。昨日までホテルにいたはずなのに、今日はここで人を迎えている。もちろん私の家ではない。誰の所有なのかすら知らないのだ。「それにしても、すごいところですね」思わずそう言うと、久我先生は少し笑った。「セキュリティに関しては、国内でも最高水準でしょう」「やっぱり、そうなんですね」だから部長がここを選んだのだろう。KMコーポレーションは国内最大手のセキュリティ会社だ。こういう場所をすぐ見つけられるのも、その立場ゆえかもしれない。「小松さんから、外出は控えるように言われましたか」「はい」「しばらくはそのほうがいいでしょう。お父様がかなり熱心に行方を捜しているようですから」胸の奥が重くなる。「……やっぱり」「ええ」「どうして、そこまでして連れ戻したいんでしょう」娘だから心配している。そんな理由でないことくらい、私にもわかっていた。久我先生はすぐには答えなかった。「今日はそのことも含めてお話ししようと思って来ました」鞄から書類を何枚も取り出す。「まず、お母様から相続された財産についてです」自然と背筋が伸びた。「黒崎さんは、ご自身が何を相続されたか、どこまで把握していますか」「預金と不動産、それから株があることくらいです」「金額は」「……正確には」答えられなかった。母が亡くなったあと説明は受けたはずだ。でも、あのときは何も考えられなかったし、ほとんど父が話を進めていた。『澪には難しい話だから、俺に任せておけばいい』そう言われて、それを信じた。「署名を求められた書類もありました。でも、父が必要だと言うから……」「内容を確認せずに?」「……はい」久我先生の表情が少し険しくなった。「何か問題がありますか」「問題があるかどうかも含め、今確認しています。ただ――」一枚の書類が目の前に置かれた。「お父様から聞いていた内容と、実際の相続内容には差があると思います」「差?」「はい」資料が次々と並べられていく。預金。不動産。有価証券。聞いたことのある企業の名前もいくつもあった。そして最後に、榊原グループの名前が記された資料が置かれた。「お母様は、榊原グループ関連会社の株式を相当数保有されていました」「それは知っています
連れてこられたのは、都心の一等地に建つ高級タワーマンションだった。地下駐車場に入るだけでカードキーの認証が必要で、エントランス、専用エレベーターと何重にもセキュリティが敷かれている。エレベーターも居住者の権限がなければ階数を押せない仕組みらしい。「こんなところ……」最上階近くの部屋に通されて、さらに言葉を失った。壁一面のガラス窓の向こうに、東京の街並みが広がっている。複数の寝室がある三LDK。家具も家電も、すでにすべて揃っていた。「ここなら、あいつらも踏み込めない」部長は淡々と言った。「ここって、いったい……」「俺が用意した」「用意したって、こんな部屋を……」数時間でこんな部屋を手配できるものなのか。いくらエリートでも、個人でできる範囲を超えている。戸惑う私を見て、部長はふっと小さく笑った。「勘違いするな。俺の私邸じゃない」「え……?」「今は、お前をこれ以上追い詰めさせない」「不倫はしない」その言葉が車の中で聞いたときと同じ重さで蘇り、胸の奥が小さく痛んだ。「……わかってます」「なんだその顔は」「何でもありません」これ以上惨めな気持ちになりたくなくて、話を逸らした。「あの、ここ、家賃はいくらなんですか」部長が一瞬、言葉に詰まった。「……そこを気にするのか?」「当たり前です」自分の給料で払えるような部屋ではない。裁判がどれだけ長引くかもわからない。「カードも使いたくないし、現金も底をつくかもしれません。こんな家賃、払い続けるなんて――」「金の心配はしなくていいと言っている」「でも――」「必要ないと言っているだろう」その態度に、ますますわからなくなる。「どうしてそこまでしてくれるんですか」気づけば、口をついて出ていた。「赤の他人の私に、どうして」部長の目をまっすぐ見返す。「お金なら、母の遺産を相続できたら全額お支払いします。昨日、自分にも利点があるって言ってましたよね」「そんなもの、端からいらない」迷いなく否定される。「榊原の財産に、一片の価値もない」「じゃあ……」それなら、なおさらわからない。「どうしてここまで助けてくれるんですか」短い沈黙のあと、部長が口を開いた。「……正式に離婚したら、俺と結婚してくれ」「……えっ」聞き間違いかと思った。「けっこん……?」「ああ」「私と、で
部長と久我先生が帰ったあと、広すぎる部屋に一人だけ残された。テーブルの上には、渡されたばかりの書類の束。そんなことより、別れ際、部長は言った。不倫はしない、と。それが正しいことくらい、頭ではわかっている。わざわざ自分から不利な立場に足を踏み入れる理由もない。それなのに、胸の奥に黒い澱のようなものが残っていた。「どうして、こんなに悲しいんだろう」誰もいない部屋で呟いて、そんな自分に嫌気が差す。断られたことが、思っていたより深く突き刺さっていた。昨夜は酒の力を借りていたとはいえ、心のどこかで一線を越えるつもりだった。長年秘めていた気持ちに、彼の優しさを重ねていたのかもしれない。でも、今の部長にとって、私はそういう対象ではないのだろう。考えてみれば、元夫からも求められた記憶はなかった。一年一緒に暮らして、肌が触れることすらなかった。妻としても、女としても、何かが足りないのかもしれない。「もうやめよう、こんなこと考えるの」これ以上考えても惨めになるだけだ。それより、これからどう切り抜けるかを考えなければ。ただ、一つだけわからないことが残っていた。どうして部長は、ここまで私のために動くのか。不倫はしないと言い切り、裁判で不利にはさせないと誓い、久我先生まで連れてきて、水面下ですでに動き始めている。昨日、自分にも利点があると言っていた。榊原の財産絡みの話なのだろうか。もし母の遺産を取り戻せたら、その一部を渡すことになるのか。そう考えれば、少しは筋が通る。そんなことを考えていたとき、インターホンが鳴った。久我先生の忘れ物だろうか。モニターに歩み寄り、映像を見て、血の気が引いた。見知らぬ、険しい表情の男。しかも一人ではない。背後に体格のいい男たちが何人も控えている。全員ダークスーツ。ホテルの従業員でないことはひと目でわかった。「……誰なの」父が私の居場所を嗅ぎつけたのか。震える手で扉を開けるべきか迷っていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小松部長」の文字。「はい……っ」
仕方なくキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、中に並んでいる食材はどれも昨日までの自分が用意したものばかりであることに気づき、思わず小さく息を吐いた。当たり前だ。この家で食事を作ってきたのは、ずっと私だったのだから。私はいつも通りに味噌汁を火にかけ、卵を割り、焼き魚を用意した。出来上がった料理をトレイに乗せてダイニングへ運ぶと、リビングでソファに腰かけている恒一さんと、その隣に当然のように身を寄せる美咲の姿が目に入った。その距離の近さに、これが預かっている妹との距離かとため息が零れ落ちそうになる。「できたわ」それだけを告げて仕方がないので、自分も食べようと席に着こうとした時だった。「
やはりいつもと違う部屋だからか、昨日のことがあったからか……。遅くまで寝付けなかったこともあり、気づけばブラインドから明るい日差しが差し込んでいた。「どうしよう!!」朝食の準備が間に合わない、そう思った私だったが、不意に別に作ることはない、そう思った。今日は土曜日。恒一さんも会社は休みのはずだ。美咲が彼と一緒に夜を過ごしたのなら……。そこまで考えて小さく息を吐いて、ベッドを下りた。スーツケースの中から着やすいワンピースを選ぶと、それに袖を通す。ゲストルームということで洗面台もついたこの部屋にいて、むしろ良かった。そんなことを思いつつ支度を済ませた。美咲が現れる前は、夫婦なんて到
寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。私はそこで一息つくと、荷物を持って一
部屋を片付けていると、背後で静かにドアが開く音がした。振り返らなくてもわかったのは、甘ったるい香水の匂いがしたからだ。あれからまだ十分もたっていないのに、もう急かしに来たのだろうか。「まだ終わってないわ」振り返らずにそう言うと、後ろでドアが閉まったのが分かった。仕方なく振り返ると、そこには美咲だけが立っていた。「恒一さんは?」別に興味はないがそう聞くと、美咲は「お風呂よ」と答えた。時間からして、食事をしてきたのかどうかもわからないが、こんなに早いとは思わなかったし、昼間の父の電話のこともあり、今日は作っていない。「へえ、確かにゲストルームよりこっちの部屋の方が広いわね」私の横を