消えた妻は振り返らない 復讐は雨のように

消えた妻は振り返らない 復讐は雨のように

last updateDernière mise à jour : 2026-04-27
Par:  makoEn cours
Langue: Japanese
goodnovel16goodnovel
Notes insuffisantes
16Chapitres
6.5KVues
Lire
Bibliothèque

Partager:  

Report
Overview
Catalog
Scanner le code pour lire sur l'application

政略結婚で嫁いだ先で夫からも家族からも愛されることのない日々を送っていた澪。 名家の娘でありながら、その立場はすでに形だけのものとなり、黒崎家では「名ばかりの妻」でしかなかった。 そんなある日、夫・黒崎恒一のもとへ、一人の女性が現れる。 ――白石美咲。 父の過去が生んだ、澪の異母妹。 夫の視線も、居場所も、そして“妻”という立場さえも。 「お姉さまは優しいんです」 そう言って微笑むその裏で、美咲は澪を追い詰めていく。 離婚を決意する澪だが、離婚だけは承知しない夫。そのため澪はすべてを捨てて自分も不倫をして不貞を理由に離婚をしようとするが、予想外の妊娠に、澪はすべてを捨てて姿を消すがーー。

Voir plus

Chapitre 1

STORY 1

黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。

天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。

私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。

黒崎澪、二十六歳になる。旧姓は榊原だ。

榊原グループの令嬢だった母と、その家に婿入りした父との間に生まれた一人娘である。

背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気は、かつて「深窓の令嬢」と呼ばれていた母によく似ていると、よく言われたものだが、この家でそれを口にする者はいない。

時計はすでに日付をまたいでいた。

ダイニングテーブルの上には、三度目の温め直しを待つ料理が並んでいた。私はそれらに目を落としながら、いまさら味の問題ではないのだと、どこか冷静な自分が囁いているのを感じていた。

それから少しして玄関の電子音が静寂を破り、低く響く足音が近づいてくる。この家に帰ってくるのは一人だけ。

黒崎恒一、形式上私の夫だ。

三十二歳になったばかり。若くして世界的な大企業である黒崎ホールディングスを率いる経営者だ。

整った横顔は冷たく研ぎ澄まされていて、スーツの皺ひとつ許さない几帳面さが、そのまま性格を表しているように見える。

「まだ起きていたのか」

視線は私を素通りし、ネクタイを緩める仕草もどこか事務的に見えるのは、私の心の問題かもしれない。

「お帰りなさい」

できるだけ明るく言ったつもりだったが、それが彼にどう届いたのかはわからない。わからないままでいいのかもしれない、とも思う。

結婚して一年になるが、この家で私が“妻”として扱われた記憶はほとんどない。

この結婚が両家の両親にとって取引にすぎなかったことは、最初からわかっている。愛情を期待する愚かさも、とうに捨てたはずだった。

それでも、この一年、努力をすればいつかは少しくらい温かい家庭が築けるのではないかと、そう思って自分なりにやってきたつもりだった。

食事を温め直そうとキッチンへ向かいかけたとき、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。振り返りはしなかったが、テーブルに置かれた画面が一瞬光るのが視界の端に入る。

〈今日は楽しかったですね、恒一さん。またお会いできるのを楽しみにしています。ごちそうさまでした〉

―美咲。

その文字に、私は自分の心が一気に冷たくなるのがわかった。

その名前でなければ、たとえ女性であってももう少し冷静でいられたかもしれない。

自分がどんな顔をしていたかもわからないが、夫は隠そうともしない。むしろ私の視線に気づくと、淡々と告げる。

「詮索はするなよ。と言っても、お前の家族を大切にしているだけだろう?」

弁明も言い訳もない言葉だったが、それをとがめるつもりはない。ただ、ゆっくりと頷いた。

「ありがとうございます」

どうして私がお礼を言わなければいけないのか。でも、そうするしかないのだ。

私の家族――そう、美咲は確かに私の家族だ。

「今日は楽しかった、ごちそうさま」と書かれたその文字を見れば、私が作った夕食を口にするつもりがないことくらい、わかってしまう。いらないとも言わず、彼がリビングに戻ってくることもないだろう。

私は作った食事にラップをかけ、深夜のキッチンで黙々と手を動かしていた。

半年前に母が亡くなり、その後に父が再婚した相手の娘が美咲だ。そしてそのときまで知らなかったが、父は同じだった。

つまり父は、ずっと外で別の女と関係を持ち、子どもまで作っていたということになる。母との関係が冷え切っていたことも、私を政略結婚に差し出したことも、私がその程度の存在だったということだ。

母違いの妹がいることは、今までの父からすればそれほど驚くことではなかった。

けれど――。

母が亡くなり、美咲が榊原家の娘になったことから、すべての歯車は狂い始めたのかもしれない。

Déplier
Chapitre suivant
Télécharger

Dernier chapitre

Plus de chapitres
Pas de commentaire
16
STORY 1
黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。 黒崎澪、二十六歳になる。旧姓は榊原だ。 榊原グループの令嬢だった母と、その家に婿入りした父との間に生まれた一人娘である。背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気は、かつて「深窓の令嬢」と呼ばれていた母によく似ていると、よく言われたものだが、この家でそれを口にする者はいない。時計はすでに日付をまたいでいた。 ダイニングテーブルの上には、三度目の温め直しを待つ料理が並んでいた。私はそれらに目を落としながら、いまさら味の問題ではないのだと、どこか冷静な自分が囁いているのを感じていた。それから少しして玄関の電子音が静寂を破り、低く響く足音が近づいてくる。この家に帰ってくるのは一人だけ。 黒崎恒一、形式上私の夫だ。 三十二歳になったばかり。若くして世界的な大企業である黒崎ホールディングスを率いる経営者だ。整った横顔は冷たく研ぎ澄まされていて、スーツの皺ひとつ許さない几帳面さが、そのまま性格を表しているように見える。「まだ起きていたのか」視線は私を素通りし、ネクタイを緩める仕草もどこか事務的に見えるのは、私の心の問題かもしれない。「お帰りなさい」できるだけ明るく言ったつもりだったが、それが彼にどう届いたのかはわからない。わからないままでいいのかもしれない、とも思う。結婚して一年になるが、この家で私が“妻”として扱われた記憶はほとんどない。 この結婚が両家の両親にとって取引にすぎなかったことは、最初からわかっている。愛情を期待する愚かさも、とうに捨てたはずだった。それでも、この一年、努力をすればいつかは少しくらい温かい家庭が築けるのではないかと、そう思って自分なりにやってきたつもりだった。食事を温め直そうとキッチンへ向かいかけたとき、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。振り返りはしなかったが、テーブルに置かれた
Read More
STORY 2
都内でも名の知れた高級ホテルの最上階。大きなガラス窓の向こうには夜景が広がり、柔らかな照明に照らされた店内は、静かで落ち着いた空気に包まれている。食器が触れ合うかすかな音と、抑えられた会話だけが上品に響いていた。スタッフに名前を告げ、案内されようとした、そのとき――「恒一さん!」弾んだ声が、空気を破った。振り向くと、そこには見覚えのある父、そして継母、義妹の姿があった。義妹の美咲はまっすぐこちらへ駆け寄ってくる。淡い色のワンピースを揺らしながら、迷いなく距離を詰めてくるその姿に、私は思わず目を見開いた。そして彼女は、ためらいもなく恒一さんの腕に触れる。「久しぶりです、会いたかった……!」親しげに見上げるその顔に、恒一さんの表情がわずかに緩んだ。その表情に、さらに私は驚きを隠せない。私が彼女たち親子の存在を知ったのは、つい先日のこと。どうして、夫に久しぶりというのか……。「……ああ、美咲か。久しぶりだな」低く落ち着いた声。その響きは、私に向けられるものとはどこか違っていた。「元気にしてたか?」「はい! 恒一さんはお仕事お忙しかったんですか?」まるで当たり前のように交わされる親密な会話。にこやかで屈託がなく、天真爛漫な女性。それが美咲だ。その距離感は、とても“初対面”とは思えない。私はそのすぐ隣に立っているということに気づいていないのか……。そう思った瞬間、ぱっとその腕を離すと、美咲が私に頭を下げた。「お姉さん、ごめんなさい。怒らないで」え? 怒る? 確かに距離感はおかしい、そう思ったが、私が何を怒るというのだろう。「先にお姉さんに挨拶すべきだったのに……」そんなこと、別に言ったこともないし、思ってもいないことだったが、美咲は深々と頭を下げる。「美咲、そんな必要はないだろう」夫が苛立ったように言うのが分かり、私も笑みを浮かべた。「別に気にしてないから。でも……ふたりとも久しぶりって?」そう問いかけると、美咲が何かを言おうとしたが、そこに父たちが合流して、話が途切れた。ここのフレンチはとても美味しいはずだが、目の前で繰り広げられる私を除いた人たちの会話に、私は黙々と料理を口に運ぶしかなかった。そのとき初めて知ったことだが、美咲と恒一さんは面識があったようだ。もともと結婚は親同士のもので、父と恒一さんの父が友人だった
Read More
STORY 3
あの食事会から一か月近くが経つが、恒一さんとは相変わらずの日々が続いていた。 毎日彼のシャツにアイロンをかけ、食べるかわからない食事を作り、待つ日々。彼は社長として多忙な日々を送っていて、感情をあまり表さない人だと思っていたが、それは違ったのだ。 美咲と話すときの恒一さんは、私の知っている人とは違った。冷たいのは私に対してだけだった。そのことは少しずつ私の中で、このままでいいわけがないという思いに変わっていった。どうにかして離婚を――そう考え始めたとき、ありえない連絡が入った。「美咲を、しばらくお前の家で預かってほしい」父からの電話に、私はさすがに「は?」と声が漏れていた。「なんだその言い方は!!」すぐに飛んできた罵声に、私は小さく息を呑む。それにしても、どうしてそんなことが言えるのか……。常識的に考えて、娘の結婚している家に妹を同居させるなど、非常識なうえに、夫が了承するわけ――。そこまで思って、私は思考を止めた。――夫は同意する。その確信が私にはあった。あの二人の親密な様子を見れば、きっと美咲が頼んだか、あるいは夫から提案した可能性も否定はできないだろう。「どうして?」そう尋ねると、父は仕事で家を空けることになり、美咲がひとりでは心配だからと、取ってつけたような理由を口にした。二十四にもなって一人で暮らせないわけはない。家もお金もあるのだから。そうは思うが、そんなことを言っても仕方がないだろう。私が了承の返事をする前に、父の電話は切られ、無機質な音が響いていた。その夜、あろうことか、いつもは午前様の恒一さんが珍しく早い時間に帰宅した。玄関の電子音に顔を上げ、違和感を覚えたまま出迎えに向かう。だが、扉の前で足が止まった。そこに立っていたのは、恒一さんだけではなく、美咲の姿もあった。「どうして一緒なの?」 いつもならそんなことを聞くことはないが、今日の私は少し苛立っていた。 理不尽な扱いにも限界だったからだ。お金のためというのなら、もう少し私に敬意を持つべきだろう。ただ、何もできない主婦をバカにしているだけなのだ。「お姉さん、ごめんなさい。新婚のお家にお邪魔するなんてダメだって、お父様にも話したのよ」神妙な面持ちで美咲はそう言うと、深々と頭を下げた。そんな彼女をかばうように恒一さんが美咲の前に立つ。「一人暮らしなん
Read More
STORY 4
部屋を片付けていると、背後で静かにドアが開く音がした。振り返らなくてもわかったのは、甘ったるい香水の匂いがしたからだ。あれからまだ十分もたっていないのに、もう急かしに来たのだろうか。「まだ終わってないわ」振り返らずにそう言うと、後ろでドアが閉まったのが分かった。仕方なく振り返ると、そこには美咲だけが立っていた。「恒一さんは?」別に興味はないがそう聞くと、美咲は「お風呂よ」と答えた。時間からして、食事をしてきたのかどうかもわからないが、こんなに早いとは思わなかったし、昼間の父の電話のこともあり、今日は作っていない。「へえ、確かにゲストルームよりこっちの部屋の方が広いわね」私の横をすり抜けて部屋の中に入ると、見回しながら美咲がそう口にする。特に何も答えずにいると、美咲は壁にもたれ、私に視線を向けた。「ねえ、私がここに来た理由、なんだと思う?」クスっと可愛らしく聞く美咲に、私はまとめていた荷物から顔を上げ、彼女を見据えた。「両親が海外に行くからじゃないの?」父から聞いたままの言葉を返すと、美咲は微笑を浮かべて何度か首を縦に振った。「そうよ。ひとりになっちゃうから、私、寂しかったの。お姉さんがいてくれたら、家族が一緒にいられるでしょう?」その言葉にさすがに苛立ちを隠せず、私は表情をゆがめた。「さすがにそんな言い訳、信じない」淡々と言うと、美咲は少し驚いたような表情を浮かべた。「へえ、お姉さん、私のことわかってるんだ」ここまであからさまにされて、わからないということなどありえない。そう思っていると、衝撃の言葉が降ってくる。「でも、ずっとずっとそうだったって知ってた? 私、ずっと、お父様にもお母様にも、そうやってお姉さんのこと言っていたのよ」「え?」両親が私に冷たいのは母のことがあったからだと思っていた。もちろんそれもあるかもしれないが、美咲があることないこと言っていたため、父もあの態度だったのか……。妙に腑に落ちた私だったが、それを今知ったからといって何も変わらない。「そう、別にどっちでもいいわ」私がそう答えると、美咲は初めて表情をゆがめた。「つまらない」「何か言った?」呟いた美咲の言葉を聞き取れず聞き返すと、いきなり美咲が、「ごめんなさい! お姉さん!!」そう大声で叫んだ。「ごめんなさい! お姉さん!!」その甲高
Read More
STORY 5
寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。私はそこで一息つくと、荷物を持って一階のゲストルームへと向かった。十畳ほどだが、トイレもシャワーも備え付けてある部屋だ。ここで十分だし、二階より一階の方が何かと都合がいい気がする。そう思いながら、私はベッドへと腰かけた。このまま美咲がこの家にいるなら、また何かをしてくるかもしれない。そして恒一さんは、それを盲目的に信じる。その前に、自分でできることを始めなければ。そう思うと、私はPCの電源を入れた。とりあえず、榊原の顧問弁護士に――いや、それはまずい。父の息がかかっていないとは言い切れない。もちろん、一人だけこの件を相談できる相手はいる。いや、正確には“いた”というべきかもしれない。今も協力してくれるとは限らない。小松碧唯。私が働いていたKMコーポレーションの上司であり、そして――私がこの結婚を決めるきっかけになった人だ。世間体もあったため、大学は好きに行かせてもらえたが、父のもとで働くことは許されなかった。しかし、大学時代の論文が目に留まり、国内最大手のセキュリティ企業であり国家案件まで扱うKMコーポレーションに、運よく入社することができた。結婚しろと言われるまで、私はそこで働いていた。その時の上司が、小松碧唯だった。冷静沈着で、感情を表に出すことはあまりない人だったが、残業で疲れている部下や仕事に行き詰まった者をきちんと見て、さりげなくフォローしてくれる人だった。ひそかに、私が憧れていた人。高い身長に整った容姿、芸能人と言われても遜色のない外見に加え、KMという大企業の若き部長。憧れたり、本気で想いを寄せたりする女性社員は後を絶たなかった。それでも、小松部長がその誘いに応じるとこ
Read More
STORY 6
やはりいつもと違う部屋だからか、昨日のことがあったからか……。遅くまで寝付けなかったこともあり、気づけばブラインドから明るい日差しが差し込んでいた。「どうしよう!!」朝食の準備が間に合わない、そう思った私だったが、不意に別に作ることはない、そう思った。今日は土曜日。恒一さんも会社は休みのはずだ。美咲が彼と一緒に夜を過ごしたのなら……。そこまで考えて小さく息を吐いて、ベッドを下りた。スーツケースの中から着やすいワンピースを選ぶと、それに袖を通す。ゲストルームということで洗面台もついたこの部屋にいて、むしろ良かった。そんなことを思いつつ支度を済ませた。美咲が現れる前は、夫婦なんて到底言えないが、必要だからだろうが、恒一さんは朝食はとっていた。家政婦とでも思っているのかもしれないが。さあ、今日はどうしようか。いつもは彼が仕事に行った後、私も食事をとっていたし、休日は作っている間にキッチンでさっと済ませているが……。ブラインドを開けると、とてもいい天気で、桜も綺麗かもしれない。外で食べよう。別にこの家にいる必要などない。朝食だって美咲に作ってもらえばいい。そう思うと、私はバッグを持ってリビングへと向かった。そのまま玄関へと向かおうとした時だった。「澪、どこに行くんだ。朝食も作らずに」二階の階段の上から聞こえたその声に、私は静かに振り返った。そこにはバスローブ姿の恒一さんが立っていた。どこに? 朝食も作らずに? その問いに、いつも通り過ごすつもりなのかと私は彼を見据えた。「美咲は?」「もうすぐ来る」その言葉の意味を考えるより先に、背後のリビングの扉がゆっくりと開いた。「おはようございます、恒一さん」柔らかな声。振り返らなくてもわかる。「お姉さんも、おはよう」一瞬だけ間を置いて付け足された言葉に、私はゆっくりと視線を向けた。美咲はすでにきちんと身支度を整えていて、まるでこの家の“主”であるかのように自然にそこに立っている。「悪い、美咲。朝食まだできてないみたいだ」当然のような一言で、胸の奥がすっと冷える。「今日は作らないわ」静かにそう返すと、恒一さんの表情がわずかに歪んだ。「は?」低く、苛立ちを含んだ声が聞こえたが、私はキュッと唇をかみしめて口を開く。「私は外で食べるつもりなの。だから――」そこまで言いかけたと
Read More
STORY 7
仕方なくキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、中に並んでいる食材はどれも昨日までの自分が用意したものばかりであることに気づき、思わず小さく息を吐いた。当たり前だ。この家で食事を作ってきたのは、ずっと私だったのだから。私はいつも通りに味噌汁を火にかけ、卵を割り、焼き魚を用意した。出来上がった料理をトレイに乗せてダイニングへ運ぶと、リビングでソファに腰かけている恒一さんと、その隣に当然のように身を寄せる美咲の姿が目に入った。その距離の近さに、これが預かっている妹との距離かとため息が零れ落ちそうになる。「できたわ」それだけを告げて仕方がないので、自分も食べようと席に着こうとした時だった。「……何してる」低く抑えた声だったが、その意味を理解できずに夫に視線を向けた。「座ろうとしているのか?」その言葉に、椅子へ伸ばしかけていた手を止めた。「お前の席はない」淡々と、まるで説明するまでもない事実のように言い放たれ、その一言で空気の温度がわずかに下がるのを感じた。「……そう」それだけを口にして、立ったまま二人の様子を見ている自分がおかしくなる。この二人と朝食を食べたいわけじゃない。「いただきます」場の空気とは無関係に、美咲が明るい声を響かせる。何事もなかったかのように箸を取り、味噌汁に口をつけた、その直後だった。「……え?」かすかな違和感を含んだ声が聞こえた、次の瞬間、美咲の表情がわずかに曇る。「どうした?」恒一さんがすぐに身を乗り出し、その顔を覗き込む。「いえ……なんだか、少し変な味がして……」遠慮がちな口調だったが、その言葉ははっきりと場に落ちた。それだけで、空気が変わる。「……変な味?」低く繰り返されたあと、ゆっくりとこちらへ向けられる視線に、背筋が冷たくなるのを感じた。「お前、何をした?」「何もしてないわ」即座に否定する。そんなことをする理由も意味もない。「普通に作っただけよ」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、「ふざけるな」低く押し殺した声と同時に視界が大きく揺れ、パシン、と乾いた音が室内に響いた。何が起きたのか理解するより先に、頬に焼けるような痛みが走り、遅れて、自分が叩かれたのだという事実が現実として追いついてくる。「美咲に何かあったらどうするつもりだ」冷たい声音と、まっすぐに向けられる怒りの視線。そのど
Read More
STORY 8
「何か冷やすものをもってこればよかった……」 そう思った私は、じんじんする頬に手を当てた。結婚をしてから、いい関係ではなかったが手を上げたり暴言を吐かれることはなかった。 それが美咲が現れてからの彼は別人のようだ。 愛情があったわけでもないが、最低限うまくやりたいと思って努力をしてきたこ私の中の気持ちが切れるのには十分なことだ。 弁護士はともかく、この家をとりあえず出るしかない。 「とりあえずホテルに泊まるしかないな……」 クレジットカードや、実家がよく利用するホテルはまずい。ライバル会社で父が目の敵にしているKAIグループのホテルがいいだろう。 とりあえずネットで予約を……。 そう思った私だったが、それすらすぐに足がつきそうで私はとりあえず家を出ようと決めた。 その時、外でバタンという音が聞こえ、窓の外を見ると恒一さんと美咲が車で出かけていく姿が見えた。 今しかチャンスはない。私は用意していたスーツケースにバッグを手に家を出た。 大通りまででてタクシーを呼ぶとセクチュアリーヒルズホテルまでと運転手に伝える。そこでようやく家をでれたことにほっと息をなでおろした。 あくまで私の財産が必要なあの人たちは、どれだけいなくなって欲しいと思っていても、形上の妻が必要なのだ。 会社や社会では父が実験を握っていて、権力はかなり大きい。恒一さんの実家も力を持っている。 権利だけを持っている小娘である私より、よほど周りの大人を動かしやすいのは確かだ。 「命さえ狙いそうよね……」 そう思ったことが声に出ていたようで、運転手さんが「え!」って声を上げた。それを慌てて「映画の話です」そう答えた。タクシーがゆるやかに速度を落とし、やがて大きなアーチ状の車寄せの下へと滑り込むように停車した。 「到着しました」 運転手の声に、私ははっと我に返る。顔を上げた瞬間、思わず息を呑んだ。セクチュアリーヒルズホテルは、夜の光に照らされて静かに輝いていた。正面のファサードは重厚な石造りでありながらどこか柔らかさを感じさせ、幾重にも重なるガラスの向こうには、シャンデリアの光が滲むように広がっている。出入りする人々は皆、洗練された装いで、まるで別の世界のようだった。自分の姿をふと見下ろす。いろいろ気が回っていないこともあり、私の服装は
Read More
STORY 9
「一週間、でございますか」初めて見せた戸惑いだった。予約なし、身分の提示も曖昧なまま、まとまった日数を求める客など、警戒されて当然だろう。けれど、ここで引くわけにはいかない。クレジットカードは使いたくない。履歴を辿られれば、すぐに足がつく。「必要であれば、先にお支払いします」そう告げると、女性は一瞬だけこちらを見たあと、すぐに穏やかな表情へ戻った。「かしこまりました。お部屋はツインタイプのご案内となりますが、よろしいでしょうか」「構いません」差し出された書類に視線を落とし、ペンを握る。名前を書くその一瞬、ためらいが生まれる。だが、私は祖母の旧姓を書き込んだ。偽りであることは分かっている。それでも、ここではそれが自分を守るための手段になるのだと、無理やり納得させる。手続きを終え、荷物を預けると、ようやく張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。ラウンジへ向かう。大きな窓から差し込む光は柔らかく、外の喧騒が嘘のように切り離されている。落ち着いた色合いのソファに身を沈めると、ようやく自分がここまで逃げてきたのだという実感が追いついてきた。サンドイッチとコーヒーを頼み、ひと息つく。とりあえず部屋は確保できた。だが、ここが終着ではない。このまま滞在し続けることはできないし、かといって身元を明かさずに部屋を借りるのも簡単ではない。父が動けば、友人を頼ることもすぐに知られてしまうだろう。どうするべきか。答えはまだ見えない。運ばれてきたコーヒーから立ち上る香りは、驚くほど深く、ゆっくりと胸の奥に広がっていく。張り詰めていた神経が、ほんのわずかだけ緩むのを感じた。さて、チェックインまではまだ時間がある。どうしたものか――そう考えながら、少し残っていたコーヒーを飲み干した、そのときだった。「沢田様」呼び慣れない名に、一瞬返事が遅れる。「……はい」慌てて振り向くと、そこには仕立ての良いスリーピースを着た男性が立っていた。年の頃は三十代前半だろうか。立ち姿も所作も隙がなく、いかにも一流ホテルのスタッフといった風情である。「お部屋のご用意が早く整いましたので、ご案内させていただけますが、いかがなさいますか」その言葉に、思わず目を瞬かせる。だが、これからのことを落ち着いて考えられる場所を早く確保したかった私は、すぐに小さく頷いた。「……ありがとうござい
Read More
STORY 10
改めて室内を見渡すと、この部屋がいかに規格外であるかを思い知らされる。広々としたリビングの隣にはキングサイズのベッドが置かれた寝室があり、その奥にはガラス張りのバスルームまで備えられている。冷蔵庫を開ければ、整然と並べられたフルーツやボトルウォーター、軽食まで揃っていて、ただ一泊するための部屋とは思えないほどの充実ぶりだった。空きがないとはいえ、この部屋をあてがわれるのは、やはり気が引ける。それでも、私はゆっくりと息を吐き、窓際のソファへと腰を下ろした。大きなガラス越しに広がる街並みはどこまでも遠く、まるで自分とは無関係の世界のように見える。バッグから手帳とボールペンを取り出す。最初に書いたのは――離婚。あの人たちと縁を切りたい。そして、自分の財産を守りたい。お金が欲しいわけではない。ただ、あの人たちの手に渡るくらいなら、どこかに寄付したほうがよほど意味がある。そこまで書いて、ペン先が止まる。その先をどうするのか。できることなら、仕事をしたい。だが、日本でそれが可能なのかは分からない。名前も、経歴も、すべてがあの家と結びついている以上、どこかで必ず足がつく。――それなら、いっそ海外へ行くべきかもしれない。言葉も、生活も、すべて一からになるとしても、そのほうがまだ現実的なのではないかと、そんな考えが頭をよぎる。自由に生きたい。書き留めたその言葉を見つめながら、私は小さく息を吐いた。だが――問題は、そのために何をするかだ。今日の夜、恒一さんたちは家に戻るだろう。その時点で私がいないことには気づくはずだが、おそらく最初は、すぐに戻るものだと考えるに違いない。だが、朝になっても戻らなければ、さすがに異変として扱われ、本格的に探し始めるはずだ。ここにいる限りは安全だろう。けれど、ずっと滞在できるわけではない。部屋を借りるにしても、身元の登録が必要になるし、資金の出入りも記録に残る。手持ちがないわけではないが、口座から下ろしたりカードを使えば、すぐに足がつく可能性が高い。私はトランクを開け、奥にしまってあった封筒を取り出した。いざという時のために残しておいた現金――帯のついた札束を指先でなぞる。百万円。決して小さな額ではない。それでも、この先の生活を考えれば、安心できる金額ではなかった。クレジットカードは使えない。銀行も動かせな
Read More
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status